ポール ラッシュさんの生涯と共に歩んだ道 (3)To English

廣嶋 都留


(前へ)

1960年代、ポールさんの募金活動によく同行しました。良三は映写機とカメラ係り、私は日本紹介を兼ねて着物を着てアメリカ、カナダを巡りました。訪ねる先々で講演するポールさんの姿は未知への挑戦でした。見知らぬ土地で、初対面の会衆を前にして力強く、果敢にKEEP の働きを語り、日本の現状を訴えました。


アイオワ州の酪農集落でのことです。村の4Hクラブの青少年たちが宣伝のため、トラックやジョンデアーのトラックターの上から、“今夜7時から映画会がありま?す。ポールラッシュさんが来て日本の話をします。皆さん聖三一教会に集まってくださ?い”と村中を走り回ってくれました。どれだけの人が日本がアジアのどの辺に位置するか理解していたでしょうか、私には分かりません。‘フジヤマ、芸者’程度でしたでしょうか。KEEPの16mm映画を見せ“農村からの民主主義”を語るポールさんに村人たちはいつしか吸い込まれ、酔いしれていました。「今夜はいい勉強をしたよ」「いい話だったよ」とポールさんに握手を求める人達。司祭さまの勧めで私はバスケットを手に教会のドアーの所に立っていました。村人は財布を出し、ポケットに手を突っ込み、バッグを逆さにして、有り金ををポールさんの働きのために捧げ、満たされた気持ちで家路に急ぐのでした。KEEPの米人後援者から「ポールの手には磁石が付いている」と聞かされたことがありますが、本当のことです。もう一つその晩の出来事。5,6歳の可愛い女の子が私にこう囁きました。「私、貴方が好きよ、何故って? 私の大好きなデージーちゃんと同じひずめをしてるから」と。そう私は足袋を穿いていました。


ある時、ミネソタ州の婦人会で清里の保育園の話をする機会がありました。「1ドルあれば30人の子供たちにコップ1杯の牛乳を飲ませることが出来るのです。」と話しました。 当時1ドルは360円でした。次の日、早朝に良三と私の泊まっていたモテルに小さな天使が現れました。「ママから保育園のお友達のこと聞いた。おばさん、ここに3ドルあるよ、僕のお友達にミルクをプレゼントしてね。このお金はね、隣のおばあさんのお手伝いをして、クリスマスプレゼントもらったの」この坊やはその後、毎年クリスマス近くになると「保育園のお友達へ」と寄付を送り続けてくれました。彼は今どうしているでしょうか。どこかできっとヴォランテアーをしておられると思います。


ポールさんのたっての願いが叶い、私は長男をアメリカの有力後援者の誕生日に出産するという大仕事をしてのけました。農業学校設立のための募金活動に行き詰っていた時です。ポールさんは早速ノースカロライナのダーナル夫人に電話をしました。どうやら二人の間で子供の誕生が何時になるかカケをしていたようです。10日後、お祝いのカードと共に大口の寄付が届き、無事1963年4月、(昭和38年)農業学校は開校の運びとなりました。私には年齢にちなんで310本の花水木の苗木が船便で送られて来ました。ポールさんの手は確かに磁石つきでした。ダーノル夫人を副校長に任命したのはもちろんです。夫人は亡くなるまで学校を支え続けてくださいました。高冷地で2年間の学業ときつい酪農実習を終えた青年たちは、ポール校長から卒業記念に贈られた紅白の花水木の幼木とジャージーの子牛を連れて帰って行きました。 ポール校長は一人、一人の肩をたたき ”DO YOUR BEST”と励まし、若者たちをそれぞれの故郷へと送り出しました。


夫人からの最後のプレゼントはポールさんの棲家でした。窓をめぐらした居間から富士山や周囲の山並みが眺められる、ポールさんお気に入りの家、ノースカロライナの彼女の家の設計図を用いて建てられました。晩年のポールさんは来訪者があるたびに、思い出の品々や後援者たちの写真が沢山飾ってある部屋を歩き回り、手にした杖で指しながら、楽しそうに説明する好々爺になっていました。


ポールさんには試練も多々ありました。戦争、火災、伊勢湾台風による被害。災害に遭った時、いの一番にポールさんを勇気づけたのは村の人たち、保育園の子供たちでした。「村の人は地震、台風、火災に遭ってもへこたれない逞しさを持って生きている。“前進あるのみ”を私に教えてくれた友達だ。子供たちは5円玉、10円玉を集めて6,000円も届けてくれた。祝言用、葬式用のお金を、病院や清泉寮の再建のため届けてくれた村の友達がいるかぎり、自分は走り続けねば」と語り、アメリカ、カナダに向けて飛び立つのでした。かつてトイスラー博士に教え込まれた言葉:「キリストの名のもとに何かを行うなら、人々の目標となる本物を示しなさい。しかもそれは一流のものでなければならない。」を終生忠実に守り「御国の建設のため」を唱えつつ働き続けたポールさんでした。年齢を重ね、試練に立ち向かう力が萎えてきた頃、良き理解者、親しかった友達に先立たれ、殊に1975年、ポールさんにとって、最も頼りにし、後継者と願っていた良三の早過ぎた死は苦しみと嘆きの頂点でした。共に涙が止まらなかった時は、「われ山に向かいて目を上げん。わが助けはいずこより来たるべきぞ」(詩篇121篇)をよく唱えました。 ポールさんと出会って50年経ちました。‘グランパ?’とポールさんに甘え、可愛がってもらった、キープ協会職員の子供たちは早や中年になり、それぞれ与えられた場で活躍しています。ポールさんは日曜日、聖日礼拝で村の子供たちがアコライト奉仕をする姿を見るのを楽しみにしていました。あの小さな聖アンデレ教会から教役者が育ち、現在までに3人の主教が生まれました。今春選出された植松誠首座主教は清里生まれの清里育ち、植松従璽主教と喜久江医師のご子息です。昨年春、MJMイースター礼拝と祝会をともに祝って下さった武藤主教もやはり清里育ち、聖アンデレ教会の謙一司祭とは叔父、甥の関係です。MJMの創始者、秋吉光雄司祭は私たち清里の仲間でした。ポールさんの蒔き続けた種は見事に実り、育ちました。 ポールさんの“ヨ?!”と言う声が聞こえます。つづいて“DO YOUR BEST!”と響きます。


「一人が一人を」と兄弟ペテロをイエスのところに連れて行き、自分は目立たず、支えの役に徹した使徒アンデレの姿に自分を重ね、ポールラッシュさんは「清里農村センターは日本人が自らの手で育て上げた農村モデル事業」と言い続けておられました。彼は「博士」とか「先生」と呼ばれるのを好みませんでした。医師の指示を無視してお酒は飲むし、タバコを吸うし、ご自分を“罪深い人”と呼ぶ、普通の人でした。神様は普通の人の中からポールさんを選び出され、み業を示されました。日本でのポールさんの最終章の22年間を共に過ごすことが出来た私は幸せでした。 もし私が留学しなかったら、若しミシガン州の地方新聞に載らなかったら、もしポールさんに出会わなかったら、もし、もしと思いを巡らします。すべては神様のご計画のうちにあったことと思います。ポールさんの遺言には「私物はすべて都留に残す」と記されてありました。1979年12月、私が受け取ったものは着古されたパジャマとタバコの焼け焦げがついた古いラジオが一台でした。でも神様は抱えきれないほどの恵みをポールさんを通して私にお与えくださったと今日に至るまで感謝しています。素晴らしい出会いでした。(完)



Back to Home