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1954年秋、ミシガン州の地方紙に日本人のフルブライト留学生が州立大学で農村社会学と成人教育を専攻しているという小さな記事が載りました。それを読んだKEEP後援会の方が、ポールラッシュさんに新聞の切り抜きを送りました。間もなくポールさんから“新しい村作り”の資料が次々と私のもとに送られて来ました。手紙の最後にはいつも「ミシガン州の酪農と農村生活を良く見てきて欲しい。日本に戻って来たら必ず清里に会いに来て欲しい」というラヴコールが書き添えられていました。
1957年夏、私は清里を訪ねました。中央線は当時まだ蒸気機関車で、新宿から清里まで7時間の夜行列車の旅でした。幾つものトンネルを通り過ぎ、顔中ススだらけになって早朝、清里駅に降り立った時の感激は今でも鮮明に覚えています。四方を山に囲まれ、霊峰富士が高く、美しく輝いていました。2キロの山道を登り辿り着いた山小屋、赤い屋根がとても印象的でした。庭には日本の旗とアンデレクロスの旗がはためいていました。ポールさんはお風呂を沸かし、朝食を用意して待っていてくださいました。
それから丸一日ポールさんは初対面の私に熱っぽく、清里の将来を語り続けられました。微笑みながら語る世にも不思議な夢物語に私は吸い込まれるように聞き入りました。「主イエスはお腹のすいている人達に食べ物を与え、病んでいる人を癒し、失望している人に信仰と明日への希望を示された。私はイエスの教えを素直に実行しているだけ。」 「主イエスが弟子たちに
”GO YE TO THE WORLD”と言われた時、両腕を高く上げ10本の指は世界を指していたと思う。だから私は村に10箇所、弘道所(アウトリーチ ステーション)を建てたい。 そこで貴方に働いて貰いたい。アメリカで見、聞き、経験したことを、学問や書籍から飛び出して、得た知識を知恵に置き換えて村の人達に役立てて欲しい」と。
それから数日間、私は清里農村センターに滞在し、八ヶ岳カウンテーフェアー(村祭り)の手伝いをし、催しにも参加しました。村人とポールさんが交わす挨拶“ヨー”が心に残りました。私と眼が合うたびにポールさんは「一年だけで良いから清里の“新しい村づくり”に協力して欲しい」と言い続けていました。後になって判った事ですが、この‘一年だけ’はポールさんがかつて引っかかった魔法の言葉と同じでした
母校の大学で教職に就く予定をしていた私でしたが女子の採用にはまだ抵抗がある時代で、理事会の結論が出るまで暫く待たねばならない事情がありました。農村での生活経験が後の研究に役立つだろうと思い、一年だけお手伝いするということになりました。その後どんな生活が待ち受けていたか考えもせず、成人教育と生活改善プログラムの作成にのめり込みました。
私が参加した頃にはポールラッシュさんの夢見ていた施設:アンデレ教会、ヨハネ保育園と農村図書館、聖ルカ農村診療所、120頭ものジャージー牛のいる、オハイオ酪農牧場、清泉寮と呼ばれる宿泊施設兼集会所は出来上がっていました。10年近くかけて、米国、カナダの大勢の方々の善意と寄付で建物は揃いました。いよいよ施設を有効に活用する段階に来ていました。私の仕事は村での啓蒙活動です。毎日のように村々に出向き、ある時は泊まらせてもらい、乳搾りをしている人、農作業をやってる人に声を掛け、山の湧き水で洗濯したり、野菜や食器洗いをしているおばあさんや、お嫁さんと話し、小学校を訪ね、先生と語り、子供たちと遊び、友達として受け入れられるよう努力をするのが仕事でした。東京育ちでアメリカから帰ってきたばかりの私には毎日が驚きの連続でした。アメリカと東京の生活には15年の開きがあると思っていた私。東京と清里の生活には更に15年の開きがありました。まず山梨弁と長野の訛りが理解出来ませんでした。長年無医村であった村落では医者の顔を見るのは死神に会うのと同じだと村人が話していました。家族の者と同じ屋根の下で寝起きする大切な馬か牛を連れて一日掛りで町医者を迎えに行き、連れて来た時には、お医者さまは馬の背でくたくた、病人は死の床でした。一人目の子供はお舅さんが取り上げ、二人目からは納屋でござを敷いて一人で出産するのが嫁の務めだと聞かされ胸が痛みました。
聖ルカ農村診療所の女医であり、アンデレ教会の司祭の妻でもあった植松喜久江先生はそうした環境の中で、病人を見舞い、診察をし、産婦の検診を続け、診療所での出産を勧めておられました。4人のお子さんを育てながらの奮闘の日々でした。私も病人を捜しては診療所に行くことを勧めました。村の長老を説得するのが全ての面で一番手っ取り早い手法だと気がつくのにそう時間はかかりませんでした。厳寒の山村で囲炉裏が唯一の暖、天井の隙間から星が見えました。殆どの村人がトラホームを患らっていました。手洗いを奨励し、点眼薬を診療所で貰うように話すのも仕事。大切な山の湧き水、川上でオムツや下着を洗い、川下では食器を洗い、お米をとぎ、飲み水にしている生活、春になると毎年赤痢が蔓延しました。川の水は先ず沸騰させ、湯ざましを飲料水にするよう会う人ごとに伝え、保健所に水質検査を頼むよう勧めるのも私の仕事でした。
時間が与えられればこうした村での経験や出来事をポールさんに伝えました。彼は青い眼をまん丸くして驚き、直ちにタイプライターに向かい、2本指を駆使して米国やカナダの後援者たちに手紙を書くのでした。 的確な情報を的確な後援者に流すコツ、‘
know how’ を心得ていて寄付依頼の文章を書き上げるのに私は何時も感心しておりました。封筒の宛名書きはポールさんの手書き、綺麗な記念切手を何枚か貼るようにと私ども、職員には指示なさいました。
弘道所は彼の希望通り10軒建ちました。主婦の集まりで最初にやったことは囲炉裏の上にぶら下がっている真っ黒な裸電球を洗剤で洗い、こびりついたススとタールを落とすことでした。明るくなったと皆感激しました。後日石油かんを切って電灯の笠を一緒に作り、またまた感激しました。教会の司祭さまたちは土曜学校、聖書会のほか、時間を作っては手の足りない農家を訪ね、農作業の手伝いをなさっていました。司祭様の制服は黒いシャツに麦藁帽と長靴と思っている人達がいたほどでした。一方、私は新聞や雑誌を用いて読み書きの手伝い、友人から寄付された毛糸で編みものを一緒にしたり、洗髪まで一緒にやりました。東京の聖ルカ病院から送られてきた保健婦さんたちは育児教室や、健康診断に精を出していました。青年団の人達が洋食の食べ方を知りたいと言えば、清泉寮に遊びに来られたアメリカ人女性たちに料理講習会をして頂き、テーブルマナー教室を開きました。カテージチーズの作り方を教わり、‘ミルク豆腐’と名づけたのも懐かしい思い出です。高校、大学時代の友人たちの協力で、映画会、音楽会もしました。アメリカの洗剤会社,
プロクター&ギャンブル社の後援を得て家族計画に取り組んだ頃には‘一年の約束’は何処かに飛んでいってしまっていました。ポールさんの周到な計らい1959年春、専務理事の名取良三と結婚、清里に定住、ポールさん中心の新しい生活が始まりました。
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